2016.01.10 Sunday

主の洗礼日

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    「洗礼」
     
    顕現日も過ぎ、クリスマスの祝いのシーズンは終わりました。
    いよいよ、すべての人を照らす真の光としてこの世に降られた神の御子、主イエス・キリストの公生涯が始まります。
    その最初の物語は、顕現節第二主日である今日、わざわざ「主の洗礼日」と名がつけられているように、主が洗礼をお受けになった時のお話しです。


    すでにこの頃、洗礼者ヨハネの噂は国中に広まっていたようで、多くの人々が彼こそが待ち望んでいたメシアではないかと考えていました。しかし、彼自身は《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。》と言ってこれを否定します。自分はメシアではなく、そのお方を指し示すための道具にすぎないというのです。そのうえで彼のもとに押し寄せる人々に、悔い改めの洗礼を受けて来るべきお方を待ち望み、そのお方が現れたならば従うように・・・と説いたのでした。そして自分の役目を果たすと、新しい時代の到来を感じながら歴史の表舞台から消えて行くのです。

    神さまから委ねられた務めを果たした者がその任から解き放たれるということは、神殿で幼子イエスを抱きながら《今こそ去ります》と神をほめたたえたシメオンにも通じるところがあるようにも思います。


    主イエスが洗礼を受けられた場面にヨハネが居たかどうかはルカによる福音書を見ただけではよくわかりません。このような形でルカが記しているのは、誰によって主が洗礼をお受けになったか、ということに注目するのではなく、洗礼をお受けになった主が天から聖霊を受けて新しい生涯へと入られたことを強調するためではないでしょうか。

    真の神の子が、罪を負う私たちとまったく同じように“悔い改めの洗礼をお受けになった”という事実は、私たちを驚かせるものでもあります。しかし、この様にして主が救い主としての生涯を歩み始める最初の時に、私たちと変わることのない人として、真の人間として、悔い改めの洗礼をお受けになったからこそ、私たちの洗礼が《主に結ばれるもの》(ローマ6:3)であることを保障してくれているとも言えます。

    《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という天からの宣言を主がお受けになり「神に愛された者」としてその生涯を全うされたように、私たちも「洗礼」という恵みによって神さまの御心に生きる者とされてゆくのです。

     
    2015.09.25 Friday

    聖霊降臨後第17主日

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      「わたしに従いなさい」

       

      主イエスは、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。》と語りかけられます。では、自分の十字架とはいったい何なのでしょう。主の十字架は、私たち人間の目から見たとき、神の恥以外の何物でもありませんでした。それは、十字架で顕かにされた神の姿が、私たちの考える「神はこうあるべきだ」というイメージからまったく外れているからです。「神とはこのような方であるべきだ」、「神とはこうでなければならない」と、私たちは自分たちの持つ「神」のイメージを押し付けます。そして、私たちは自分たちの持つイメージからはずれている「神」を認めることができません。そしてもしそのイメージから外れた場合、その存在はもはや「神」ではなく私たちにとって恥ずかしい存在、恥ずべき存在へと成り下がってしまいます。
       

      受難と復活を予告された主イエスは、諌めようとするペトロを叱り「十字架」から目をそらさず、しっかりと目を注ぐように命じられました。なぜなら、そこにこそ真の赦し、真のいのちがあるからです。

      ペトロは悩んだと思います。そして、《自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。》との主の言葉を心の内で何度も繰り返していたのではないでしょうか。

       

      おそらく私たちも、この主イエスからの招きを聞いたとき、自分はこうあるべきだ、またキリストの弟子である私はこうあるべきだというイメージ、理想像を抱えてしまうのではないかと思います。そして、理想通りにならない私、イメージにそぐわないキリスト者や共同体としての教会に対して落胆したり裁いたり、心のうちでいろいろな葛藤を抱えることがあると思います。時には“もう神さまから見放され、救いなどはありえない”と落胆してしまうこともあるでしょう。しかし、キリストの十字架が示しているとおり、最も神から遠いと思われるようなところに、神さまの愛は示されました。その十字架の意味については、私たち一人ひとりが、神さまの前に立ち、御言葉に耳を傾け、自分自身に問う必要があるのではないかと思います。

       

      そのような私たちにとって《主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝毎にわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる》(イザヤ50:4)というイザヤの言葉は大きな励ましだと思います。日々の営みの中で、恐れたり、不安になったり、怯んだり躊躇する私たちですが、恐れることはありません。先立つ主が道を拓き、私たちが主のみ声に聞き従い、弟子としてついて行くことができるように導いてくださるからです。そして、十字架の主は私たちが担うそれぞれの十字架を今、共に担い同伴者として私たち一人ひとりを導いておられるのです。

      2013.05.12 Sunday

      昇天主日説教  要旨

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        「心の目を開いて」

        復活の主は、福音の使者として弟子たちをお遣わしになる準備として、彼らの心の目を開き、聖書に書かれているすべてのことを悟るように導かれています。十字架以前にも、主はくりかえし弟子たちにご自分のメシアとしての受難と復活について話されていましたが、時が満ちるまで彼らは真理を知るには及びませんでした。しかし、今は違います。弟子たちは主イエス・キリストの十字架の苦しみと栄光の復活を経験しました。自分たちの裏切り、落胆、弱さ、脆さも痛感しましたが、それ以上に主の憐れみ、愛、赦しを全身に受け、赦されて生きる喜びを全身で受け止めているのです。復活の主との出会いによって、彼らは正しい福音理解だけでなく、命の喜び、神への感謝を“ゆるぎないもの”として得ることが出来たのです。

        このような弟子たちに主は《高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》との命令を与えられました。これは、直前にある《父が約束されたもの》つまり《聖霊》が与えられるまで待ちなさいということです。ギリシア語で「覆う」という言葉は、は衣服を「着る」「まとう」という意味を持つ言葉です。私たちは自分の持つ力だけでは、この世と闘えるほど強い者ではありません。パウロが《主イエス・キリストを身にまといなさい》(ローマ13:14)と言ってるとおりです。聖霊に覆われ、御言葉によって力づけられ、世にある誘惑や悪と戦う力を与えられるのです。だからこそ、主イエスは弟子たちに約束された聖霊に覆われるまでは都で待っていなさいと言われるのです。

        また、《都にとどまっていなさい》との命令はもう一つ重要な意味を持っています。エルサレム、ここはこの世の力が主イエスを十字架にかけた場所です。そして、弟子たちが恐れに負けて主イエスを捨て、姿をくらませた場所でもあります。しかしまた、エルサレムは主が死と墓を砕き、神の勝利を示す栄光の復活を遂げられた場所でもありました。だからこそ、主は弟子たちにエルサレムで待つように、と言われるのです。彼らが躓き、落胆し、希望を失った場所を主イエスは彼らが再び立ち上がるための場所とされるのです。

        「待つ」ということは、忍耐が必要なことです。そしてまた、信仰がなければ難しいことです。父が約束されたものを待つ、主イエスの言葉を信じて待つ。そこには信頼が不可欠です。信じて待つということは、父なる神、主イエスの約束を信じ、その約束に生きるということです。主の再臨の日は隠されており、誰にもその日その時はわかりません。けれども、信仰を与えられている私たちは、この約束を信じ希望を持って待ち続けている者の群れです。それと当時にその日を迎えるまでに、あらゆる国の人々に福音を証する貴い使命を与えられています。

        2013.01.20 Sunday

        顕現節第3主日 ルカによる福音書4章16〜32節

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          「苦しみを担う方」 

           

          私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが共にあるように。

           

          主イエスは、ヨルダン川で洗礼を受けられた後、荒野での経験を経てからガリラヤへ戻られています。洗礼をお受けになって直ちに福音宣教を開始されたのではなく、荒野での試練を経てというところがいかにも主イエスらしいと思います(ちなみに、四旬節の第一日課がこの試練の箇所となっています)。

          真の神であるお方が、真の人として母マリアを通して肉体を持ってお生まれになり、罪人である私たちと同じようにヨルダン川で悔い改めの洗礼を受け、荒野において全ての誘惑と対峙された後、聖霊の力に満たされて、故郷のナザレに帰られたのです。いよいよここから宣教活動が開始されます。

           

          マタイやマルコの福音書では、このナザレの会堂での出来事は主の宣教活動が始まって少し経ってからのこととして記されています。けれども、福音書記者ルカは、主の宣教活動の具体的な内容の一番初めにおいています。おそらくルカがここで示したかったことは、ガリラヤに戻られた主イエスが権威あることばを持って聖書を解き明かし、人々に大きな驚きを与えたけれども、それは故郷では受け入れられず、むしろ異邦人に福音が広がるようになったという点だと思います。ここでも、約束のメシアは、すべての人の救いのために来られた、ということを強調しているのです。

           

          私たちにとってはこの礼拝堂がそうであるように、捕囚期以降のユダヤの人々にとって、自分たちの会堂での礼拝は信仰のよりどころでありました。また当時の社会の中で、会堂は人々の活動拠点ともなっていました。つまり主イエスにとって、ナザレの会堂とは、幼いころから通い、同胞たちと共に律法を学んだ懐かしい場所のはずです。もしかしたら、私たちが、自分が洗礼を受けた教会や活動拠点としている礼拝堂に特別な思いを感じるのと同じように、主もまたナザレの会堂に特別な思いをお持ちであったかもしれません。

           

          当時の習慣として、会堂で行なわれる礼拝においては、申命記6章および11章(6:4〜9、11:13〜21)の信仰宣言と祈り、聖書の朗読、会堂司(かいどうつかさ)が依頼した人による聖書の説き明かしがなされていました。

          主イエスがこの日の聖書の説き明かしを担当されたのは、偶然ではなく故郷に戻ってこられたことを知っていた会堂司から、あらかじめ依頼されていたのでしょう。このように福音宣教の初めの頃は、主イエスの活動もユダヤ教の伝統から切り離されることなく、会堂も講壇も開かれていたのです。それだけでなく、人々から「ラビ」と呼ばれて主は一目置かれる存在となり、人々から尊敬されていた様子も伺えます。

          けれどもやがて、宣教活動が広まり、主が教えてくださる福音の内容が浸透してゆくと、会堂から追放されるようになってゆきます。なぜなら、今日の日課にもあるように主が語られる教えの内容は、聞く人々にとっては新しい教えであり、時には神を冒涜するもののように聞こえたからです。

          主イエスは、これまでの人々が持っていた常識や考え方にとらわれず、おおらかさと自由さによって神の国の福音を解き明かされました。それは主が、罪人や病人、徴税人や異邦人、世間ではのけ者にされているような人たち、あるいは避けられているような人々とも親しく交わり、食卓を共にされるところからも、見ることが出来ます。このよう人々と関わりを持つこと、律法を厳しく守り、選ばれた神の民として生きることが大事と考えてきた同胞たちにとって、主イエスのおおらかで自由なふるまいは、受け入れ難いものだったのです。

           

          さて、この日会堂で朗読されたのはイザヤ書の巻物でした。主は61章からのことばを読み終えられるとすぐに《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と宣言されます(実は、この発言がルカによる福音書では主イエスの宣教の第一声となっています)。神が遣わされるメシアの到来を描いている預言が、「今まさに成就した」という宣言。主は、この宣言をもって、ご自分こそが救い主として神から遣わされた者であることをはっきりと証されているのです。

           

          ほかでもないナザレの会堂でこの宣言がなされたのは、「ここから福音をはじめよう」という決意があったのだと思います。しかし、故郷の人々にとって、この“メシア宣言”は驚き以外の何ものでもありませんでした。長い間待ち望んでいた約束のメシア・・・それが、この日、自分たちがその生い立ちや家族も良く知っている人物によって唐突に《実現した》と宣言されたのですから・・・。

          会堂にいた人々は、この宣言に驚きつつも、多様な反応をしています。そこには好意的な驚きや期待といったものもあれば、反対に《この人はヨセフの子ではないか》と言う人がいるように「なぜこの人が?」という驚きや疑いという負の感情も含まれています。

           

          主が朗読されたイザヤ書は、50年にわたるバビロン捕囚によって疲れきり、すっかり希望を失いかけていたユダヤの人々のために語られたものです。預言者は苦難のさなかに捕囚の民に向けて神から遣わされるメシアについて熱心に語っています。そして《貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人には解放を告知させるために》(61:1)と力強く語りかけています。

          ここに《主が恵みをお与えになる年》(61:2)とありますが、これはもともとレビ記25章に言われているヨベルの年のことを指しています。「ヨベルの年」とは、7年毎の「安息年」が7回めぐったところで迎える第50年目のことです。この年の贖罪日には、国中に鹿の角で作られたラッパが吹き鳴らされ、貧しさのために売却された土地は元の所有者に返還され、全ての貸借関係は解消されます。そして、身を売って奴隷として働かざるを得なかった者たちも解放されることになっています。つまり、この年がくると全ての人があらゆる負債や重荷から解き放たれ、人々は「主が恵みをお与えになった」と喜び祝い感謝するのです。

           

          主イエスの時代、人々はローマ帝国の支配下にあり制限付の自由しか与えられていませんでした。政治的な圧力もあれば、生活の中で起こるさまざまな不条理や不安・・・。そのような中で、人々が抱くメシアへの期待を膨らませていました。そしてその期待とは、“自分たちの具体的な痛みや苦しみをぬぐうものあって欲しい”という願いに近かったのかもしれません。

          ところが主は《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した》と言われるだけで、驚くような奇跡も特別な業も何も起こされませんでした。

           

          期待しているような出来事が何も起こらない。また故郷の人々は、主イエスとその家族を知っているだけに、その言葉を素直に聞き入れることが出来ません。しかも、主がエリヤの物語を引き合いに《預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ》と言われたものですから大変です。たちまち会堂にいた人々は皆憤慨し、総立ちになって追い出しにかかりました。そして、町が建っている山の崖まで連れて行き、主イエスを突き落とそうとまでするのです。

          強い反発と敵対心は、恵みの時どころか命の危険、災いの時といわざるを得ないような状況を生み出しています。

           

          ところで、ルカ特有の記事として少年時代の主イエスの物語があります。2章52節には《イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された》という記述があります。この神さまや両親だけでなく、沢山の人々にも愛されながら主がお育ちになったと書かれてあるのですが、故郷のナザレの人々が、今、主イエスを崖っぷちへと追いやっているのです。言い換えるならば、主はかつて自分を愛し、受け入れ、親しくされた人々から、拒絶され、ひどい扱いを受け、命を奪われそうになっているのです。

           

          《この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した》と、主が聖霊に満たされて宣言されたこの言葉の意味は、“この拒絶、反発からなる辛い道を歩み始められた”ことの宣言でもありました。すべての人の罪を担い、メシアとして救いの道を開くために、福音宣教を開始された主イエス。それは、主ご自身とっては茨の道でしかありません。けれども、そのような主イエスのお苦しみがあったからこそ、私たちは自らの罪を知り、罪赦される幸いを知ることができるのです。

           

          私には、主イエスを会堂の外へと追い出し、町からも締め出し、崖っぷちへと追いやっていくナザレの人々が特別だとは思えません。なぜなら、私自身にも彼らのようになってしまいそうな危うさがあるように思えるからです。あの崖っぷちでの憎しみ、怒り、対立、暴力こそが、私たちの罪を現しているのです。そして、主はそこからご自分の道を踏み出されていきました。滅び、裁かれるものでしかないナザレの人々の間を通り抜け、共に滅びるために十字架への道を突き進まれたのです。ですから《この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたときに、実現した》という主の御言葉は、罪という崖っぷちに立たされているすべての者たちに対する主の招きの言葉、罪からの解放の宣言なのです。なぜなら真の解放、真の自由はこの苦しみを担う方の十字架と復活によって実現されるからです。

           

          今、その道が私たちの前にも広がっています。ありのままを受け入れ、真の自由を持って私たちを招いてくださる主イエス。この方の招きに私たちは応じる者、信じて従う者でありましょう。

           

          望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

          2012.12.02 Sunday

          待降節第1主日 ルカによる福音書19章28節〜40節

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            「先に立って」

             

             

            私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが共にあるように。

             

            教会の暦は今日から新年を迎えました。平和の君としてお生まれになる神のみ子を待ち望む待降節の福音が、受難節のテキストであることに疑問を感じられる方もおられるかもしれません。けれども、このお方こそが私たちの救い主、神の愛と赦しをもたらし、私たちの希望となられたキリストであるということを信じている私たちにとっては意味深いものです。

            ところがこうして教会がアドベントを迎えるよりもずっと前から、巷にはクリスマスキャロルの調べが響き、ショーウィンドーから新聞広告に至るまで、クリスマスツリーやクランツ、そしてサンタクロースなどが溢れています。しかし、クリスマスを祝うということは、派手な装飾やパーティーに身を投ずることや親しい者たちが豪華な宴に集うことが目的ではありません。私たちの罪を贖うために十字架にその命を捧げることを目的として、この世においでになった神の御子、主イエス・キリストの誕生を記念し感謝するための日です。そして、このお方の到来が、私たちにとって真の平和に与かる喜ばしい出来事である一方で、神さまにとっては耐え難い痛みと苦しみの始まりであったということを、私たちはしっかりと心に刻まなくてはなりません。待降節の典礼色が、四旬節と同じように悲しみと懺悔の思いを表す紫となっているのは、私たちが主イエスの苦難を覚えつつ、自らの罪を神さまの前に告白し、慎み深く、救い主をお迎えする準備をするためにほかなりません。

             

            さて、主イエスは天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められました。この旅が地上での旅の最後になることをご承知の上で、父から与えられた使命のために歩みを進められるのです。

            この日、主は二人の弟子を使いに出してエルサレムに入られるための特別な演出をされました。これは、ゼカリヤ書9章9節の預言のように《ろば》に乗って、エルサレム入城を果たすための演出です。使いに出された弟子たちは、行った先で主の言われたとおりの出来事を体験します。命じられたとおりに子ろばを手に入れた弟子たちは、その背に自分の服をかけ主イエスをお乗せしました。坂道の多いイスラエルでは、馬よりもろばのほうが実用的です。また、旧約の記事にも王族の乗り物として登場することもあります。そして、ゼカリヤの預言などにあるとおり、“おごることなく、高ぶることないまことのメシアの乗り物” としての重要な意味がありました。つまり主は、この小さなろばに乗ってエルサレムへ入城されることによって、ご自分が来るべき救い主、平和で汚れなき王であることを示されようとしたのです。

            過ぎ越しの祭りが近づいていたので、エルサレムには国内外から多くの巡礼者が来ていました。いつもよりも賑やかな都にこのような一風変わった集団がやってきたのですから人目を引いたことは間違いありません。居合わせた人々の中には、主が意図されたように預言者の言葉を思い出した者もいたでしょう。もしかしたら、メシア待望の思いがあふれて熱狂的な叫びを上げた者もいたかもしれません。

            他の福音書を見ると、弟子たちだけではなく多くの群衆もエルサレムへ入場される主イエスを囲み喜び讃えながら迎えたと記されています。けれどもルカは、39節に《「先生、お弟子たちを叱ってください」》とファリサイ派の人々から苦情が出ていますから、いちばん大きな声を出していたのが弟子たちであることがわかります。36節には《人々が自分の服を道に敷いた》という記事もありますから、弟子以外の人々ももちろんいたことは確かです。しかし、ルカはあえて弟子たちの姿に照準を合わせているようです。

             

            ここに今日のポイントがあるように思います。ルカが記している弟子たちの《自分の見たあらゆる奇跡》(37節)のことで喜び賛美した、という事はどのようなことを指しているのでしょうか。

             

            おそらくここで言われている奇跡というものは、なにか特別な出来事というよりも、弟子たちが主イエスと共に過ごした宣教活動の中で示された力あるわざ全体を指していると思われます。彼らは主に召しだされた日から、ずっと側につき従い様々なことを共に経験してきました。驚くような出来事も、日常の中の小さな出来事も、彼らにとっては主イエスを理解するうえで重要でした。また彼らの後の生き方にも大いに影響をもたらすものとなっています。ですから、このように特別な演出をしてのエルサレムへ入城されるということは、いよいよ何か大切な事が起こるのだということを彼らは想像することができたのです。

            また、ルカ福音書の特徴として、弟子たちが叫んだ言葉が《「天には平和、いと高きところには栄光」》(38節)と、記されている点があります。これは、主の降誕の物語での出来事と非常に良く似ています。皆さんもよくご存じだと思いますが、降誕の場面では、荒野で羊を飼っている者たちに、天使が喜びの知らせをもたらした際、天の大軍がこれに加わって《「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」》(2章14節)と歌っています。神のみ子の誕生の際には、地に平和、受難の時には天に平和となり、逆になっているのです。

            そもそも平和という言葉には、神によってもたらされる充実、という意味があります。単に争いのない状態というわけではなく、神さまの支配が満ちているということ。つまり平和=神の支配は、み子である主イエスの降誕によって地上にもたらされるものであり、主の昇天によって天に帰るべきものであるというのです。このように考えると、福音書記者ルカは、キリストの降誕と受難を非常に緊張した場面として示していることがわかります。そして、地上の主イエスの生涯が《神の熱意》(イザヤ916節参照)によってなされたことであると示し、福音書を読む私たちがそこに注目するようにと促しているのです。

             

            弟子たちが主の真意を正確に理解していたわけではありませんが、彼らは喜びと期待とに胸を膨らませながら声高らかに《「主の名によって来られる方、主に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」》(38節) という賛美の言葉を発していました。けれどもこれが、ファリサイ派の人々の敵意をさらに煽り立てる結果となってしまいます。当時の宗教指導者たちはただでさえ主イエスをユダヤの治安を乱す危険人物とみなしていました。ですから、このようにいつもとは違った演出をしながら主がエルサレムへ入城することはもちろん、弟子たちの賛美の声を黙って見過ごすことはできなかったのです。

            弟子たちを黙らせるようにと訴える人々に対して、主は《「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」》(40節)と切り返されました。これは、たとえ力によって人々を制止させ、沈黙させても石が人に代わって叫び出す、つまり、いかなる権力を用いても神のみわざを覆い隠すことも押しとどめることもできない、と言われているのです。神さまのご計画はいかなる人間の手によっても阻まれることはない。また、これらの賛美が現すとおり、主は平和の君としてエルサレムに入り、これから身に起こるすべてをご自分の使命としてしっかりと引き受けられたことを宣言されてもいるのです。

            有無を言わせない毅然とした主の言葉。しかし、ここでの発言はこのくらいで主イエスは子ろばの背で揺られながら、ほとんど沈黙を守っておられます。弟子たちの歓呼の声に包まれながら人々の間を進まれるとき、何を感じ、何を思い巡らせておられたのでしょうか。主は、この賛美の声がやがて「十字架につけろ」という呪いの叫びに変わることをご存知だったはずです。待降節を迎えた私たちは、あらためてこの日課を福音として聞き、主イエスが私にとってどのようなお方であるか、という事を考えてみたいと思います。

             

            最後になりましたが、先日私たちの敬愛する重富克彦牧師が検査のために入院されました。夏、肺に根治不可能な癌があることが見つかって以来、恵み野教会での生活と働きを維持するための手当てをするにとどめ、まさに全身で福音を語って来られていました。その渾身の説教をしばらく聞くことができないのは辛いのですが、喜びのクリスマスを迎えるためのメンテナンスとして、この機会を用いて頂きたいと願っています。

            とはいえ、息苦しさや症状などはご本人以外にはなかなか実感は出来ないものです。神さまが私たち人間を固有の存在としてお造りになられたように、病も、悩みも、思い煩いも、固有のもの。他人には肩代わりすることも、拭い取ることもできません。ただ、傍にいることが許される限り、共に居らせていただく事のみが許されているだけです。ですから、残念ながら“これが正解”という解決法や対処法もありません。ただ、福音を知る私たちは“神は共におられる”という名を持つお方が確かにおられるという事だけは知っています。「主よ、感謝します。この病の時にも、あなたの福音は前進し、あなたの教会は活き活きとしています。あなたの御名を褒め称えます…」と、病床で祈られる先輩牧師の向こうには、先立って進まれる主イエスの姿があるようでした。

            いかなる時も、主は私たちと共に居られます。そして、私たちの思いを超えた恵みと祝福の御業を示してくださいます。私たちを滅びではなく、命へと導くためにおいでになった主イエス・キリスト。心を鎮め、主の導きに信頼し、それぞれのアドベントの歩みを進めてまいりましょう。

             

            望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン